ふたりの娘。二匹のメス猫。そして発達障害気味の夫。帆の街での「ごく普通の家族」のごく普通の一日はきょうもボチボチと暮れていきます。

魂萌え!

 火曜日に続き、今日も映画を観てきました。恒例のオークランド大学での日本映画上映会です。
 今回の「魂萌え!」は、割と最近に桐野夏生の原作を読んで面白かったので、これがどういうふうに映画になっているのか、とても興味があったのでした。


     


 映画の原作を読んでから観にいくと、映画では描ききれない登場人物の関係や背景が分かっているので、ストーリーが理解しやすい反面、その描ききれていない部分(作り手が不要と判断して切り捨てた部分)の欠落が不満だったりします。一方で、作り手が加えすぎた部分にも違和感を感じることもありますよね。
 会場で偶然遭った知り合いのTさん(日本人男性)が見終わった後に「日本映画ってのはどうしてこう、中途半端な終わり方なんだろうねぇ。この後どうなるかは自分で考えなさいってことかな」なんてボソボソおっしゃっていましたが、原作を読んだ立場から見ると、逆に結論をあまりにもすっきりとまとめすぎてしまっているような気がしました。
 対外的なことはすベて夫にまかせっきりで、家族と家庭のことだけを考えていればよかった「箱入り主婦」の主人公が、夫の急死で世間の荒波(?)に放り込まれ、オロオロしながらも自分の道を探っていく様子を描いたストーリー。主人公は、自分の子供たちを含めた周りの人間から「扱いやすいやつ」と思われ、甘く見られていたことに気づきます。59歳の主人公が「これまでの自分とは違うことをしてもいいはずだ」と思い始めるところで、小説は終わっています。つまり、この先彼女がどう変わっていくか、あるいは変わらないのか、は読み手の解釈にすべて委ねられるわけです。
 ところが映画では、小説にないエンディングが加えられています。言ってみればそれは、小説の読み手でもある映画の作り手(監督)の解釈が提示されているということで、それは当然のことなのかもしれませんが、「この小説はこういう解釈なんですよ」と押し付けられているようで、不満。
 原作がある映画を観るときは、映画を観てから読んだほうがいいのかな? それともすでに読んだ小説の映画化はあえて観ないほうがいいのかな?
 なんかちょっと悩みます。